年度末の慌ただしさも遥か昔かの様に、今では仕事も閑古鳥が鳴く程に落ち着いた。これで毎日残業で朝を迎える生活とも今日でお別れだ。明らかに仕事量が減り、あまりにも暇だ。なので定時までの時間を何かしら仕事をしているフリをして過ごす。それは机の上で雪崩を起こす程の書類に囲まれていた頃よりも辛い。仕事をしているフリは仕事をする事より大変なのだ。
頃を見計らって、大きく息を吐き一仕事終えたフリをする。伸びをしたまま仰け反った向こうに見えたブラインド。その隙間から漏れる陽の光が深い赤に変わった事に気付き、ふと時計を見上げると二本の針が垂直になったいた。定時だ。ゴルフの話で夢中になっている部長の前を通り過ぎ、疲れ果てた演技をしながらタイムカードを押した。
「ひさしぶりだな、こんなに早く帰宅出来るのは」
いつもは帰宅すると先に寝ている同棲中の彼女。しかし今日は一緒に夕食を食べられる。その旨を伝える為に携帯電話を取り出したが、彼女の驚きと嬉しさに満ち溢れた顔見たさに、そっとポケットに仕舞い電車に乗り込んだ。電車はいつもの閑散とした「どこにでも座れる」状況とは違い、流石にこの時間だと乗車する事さえ精一杯だ。この時だけは終電で帰っていた頃に愛着を感じる。しかし数ヶ月ぶりのラッシュアワーもこんな日はどことなく楽しい。
立っている事さえ必死な状況で、これからのプランを考える。通勤路の商店街で何を買って帰ろうか。そうだ、今日は二人が交際を始めてちょうど一年。男は小さな記念日に乾杯する為にウォッカを購入した。嬉しさから、歩くスピードは自然と競歩並みになる。それだけ一緒の食事を楽しみにしていた。それだけ彼女を愛しているのだ。
軽快な足取りで自宅マンション前に辿り着くと、今日だけは残業時の頃と同じ、インターフォンは押さずにキーでオートロックのドアを開ける。エレベーターが八階から降りてくるのを待ちきれず、五階の部屋まで階段を二段飛ばしで駆け上がった。階段の駆け昇りと、高鳴る興奮で激しく鼓動する胸を抑えつつ、音が立たない様にゆっくりと鍵を開ける。自分の家なのに泥棒みたいに静かに鍵を開ける自分自身が可笑しかった。
カチャ…鍵は最小限の音で開いた。次はノブを慎重に回す。回した手首を動かない様に固定したまま、そっと引き寄せる。幸いにも一番の心配だったドアチェーンは外れていた。息を殺して忍び足で室内に入る。一歩踏み入れた瞬間に広がるカレーのスパイシーな匂い。テレビからはバラエティー番組の芸人の笑い声が聞こえた。
「ただいまー」
返事がない。

足元を見ると脱ぎ散らかした衣類があった。風呂に入っているのかと想像したが、いつもの彼女なら風呂に入る時は必ず脱いだ衣類をきちんと畳む。しかし幸せのど真ん中にいる彼はそれをさほど不思議な事とは思わず、よっぽど疲れていて少しでも早く風呂に入りたかったんだろうと解釈した。風呂から上がるまで先にグラスや氷を用意しようとキッチンに向かう途中、寝室から喋り声がした。
少し薄気味悪かったが、寝室のドアを開けてみた。すると…。

「きゃあぁぁぁ!!」
そこには全裸になった彼女が知らない男と抱き合っていた地獄の風景。その現場を目撃した瞬間、体中の血の気が引き、顔は青ざめ、何も言葉が出ずに立ち尽くすのみ。
「え!?彼氏は今日も遅いから大丈夫だって言ってたじゃないか!!」
男は慌てて服を半分だけ着ながら、予想外のアクシデントに二人を交互に見つめる視線が落ち着かない。まさにその男にとっても天国から地獄。彼氏の残業が続く間、今までこうして上がりこんでは浮気をしていたのだ。

「ふざけんじゃねぇよ!!お前ら荷物を持って今すぐ出て行け!!」
彼は全ての感情を剥き出しにして怒鳴った。当たり前だ、これだけ愛している彼女の信じたくない見たくなかった真実。普段なら全裸の彼女に興奮するのだが、今日だけはその姿も汚れて見えた。彼は脱ぎ散らかされた衣類を彼女に投げつけると、襟首を掴み男共々追い出した。

幸せから修羅場へと一瞬にして化した室内。小さな記念日が二度と思い出したくもない日へと変わった。誰もいないリビング、テレビから流れる笑い声が腹ただしいので電源を切る。照明の明るささえ眩しくて、布団に入った状態からでも電気が消せる様に長く伸ばした紐が千切れるくらいの力で消した。孤独とはこんな事なのだろう。
本当なら彼女と一緒に夕食を食べる予定だったテーブル。今頃はカレーライスとサラダなんかが並んでいるはずだったテーブル。彼はそこに一人で座り、ポケットから煙草を取り出したがライターが見付からない。「おーい、ライ…」思わず彼女にライターを借りようとしたが、言いかけた途中で今日からの生活を思い出した。仕方が無いので、前髪が燃えない様に気を付けながらガスコンロで煙草に火を点けた。溜め息混じりに吐かれる煙は、まるで彼女との思い出の様に儚く消えていく。
「俺は今まで何の為に働いて来たのだろう」

気が付くと彼は買って来た全てのウォッカを空にしていた。思い出す彼女との栄光の日々。初めて二人が出会ったあの日、「お…俺ん家に来ないか?ミ…ミカンだけに…オレンヂに…」と照れながら彼女を口説いた言葉、初めてケンカした夜、初めて口づけを交わした記憶、なぜか目から水分が零れて止まらないので眠る眠る。明日の為に眠る眠る。
働く男 −未完ー
ミ…ミカンだけに…。